★2009年1月13日の記事を再掲
本書は、前半を「文化資本」……「家庭」において獲得された趣味や教養やマナーと、「学校」において学習して獲得された知識、技能、感性の二種類の偏在によって二極化しつつある日本社会についてのお話。
後半は、「お金について」「転職について」「結婚という終わりなき不快について」といった15のお題に対する人生相談が語られている。
この前半の「文化資本」についての講義が結構面白い。文化資本社会では、「努力したら負け」で「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」とのこと。
文化資本を手にして社会階層を上昇しようという動機付けそのものが、触れるものすべてを「非文化的なもの」に変質させてしまうらしい。
正直、そういったものを持たざるものはどうしろって言うんだ? と思わざるをえないけど、持たざるものはそもそもそういった階層があることすら知らないんだってさ。
だったら、そういった階層があるってことや、自分自身が持たざるものだと気付いたらどうするんだ、と当然思ってくる。そうなったら、そういう人間こそが「教養」を文化的価値として作り上げる主体になることができるんだそうな。
(てか、そもそも本書の著者はどういう立ち位置でこれを書いたのだろう? その「階層」について知覚しているということは“持てるもの”ということなんだろうか? その辺がちょっと気になってしまう)
なるほどねと思ったよ。だって、持たざるものが“のし上がるための道具”として教養を見に付けることが多いわけだ。持たざるものから文化というものが出来上がってくる。もともと持っている方達は、そもそもそういったこと自体考えていないもん。
というより、考える必要がないもんねぇ。お金持ちがお金のことを考えないことと一緒、お金が全てじゃないと言うのはお金持ちだけというのと一緒だわ(しかし、自分たちが作らずとも搾取していくことは可能なんでしょ? この辺が何とも言えない構図ですわ)
でもあれだよ、持てるもの、持たざるものという社会階層を作り出したのも、持たざるものなんだけどね……。まあ、我々持たざるものは「文化」を作り上げていくことにいそんしんで参りましょう。