★2009年4月13日の記事を再掲

相剋の森 (集英社文庫)21世紀に生きるマタギの物語。同じ著者の作品「邂逅の森」に出てくる登場人物の子孫なども登場している。本書の方が先に書かれたみたいだけど、マタギの文化を知る上では「邂逅の森」を先に読んだ方が解り易いと思う。もちろん本書だけ読んでもなんら問題はないけど。

本書は「邂逅の森」と違って、主人公がマタギのことを深く知らない立場の人間ということもあり、読者と同じような視点なので結構入り込み易いかもしれない。自然保護や動物愛護がテーマになっているので、非常に現代的な話題だし興味を持つ人も多いんじゃないかと思う。そういう意味では裾野の広い作品になっている。

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21世紀のマタギ。やはりマタギという狩猟集団の思想というのは、今も昔も変わらない。残雪の山を駆け巡り、互いの知恵比べをしながら渡り合い、命をかけて仕留めてこその熊狩りなのだ。

しかし、昔みたいに自分達の世界だけで生きていくのがもはや不可能な時代になっている。熊を狩るにも、駆除の申請を行政に出さないと狩りは出来ない。その上、その駆除に対する講義や中傷が寄せられることもあったりする。

だけど、夏場は山の食べ物が不足することもあり、熊が町に出没するようになってきた昨今、駆除をしないわけにはいかない。


そこで本書に出てくる宗教学者がこんなことを言っている。

最近、自然との共生という言葉をよく耳にしますが、共生という言葉が、私は大嫌いなんです。共に生きるなどという、いかにも耳あたりがよい部分に、胡散臭さとまやかしを感じてしまうのです。

共に生きる前に、厳然として我々に突きつけられている大事な事実を忘れちゃいませんか、と言いたいのです。生き物は、ほかの生き物を殺すことで生きながらえている。互いに殺し合うのが生き物の本質なのです。死を見つめるという部分が抜け落ちた議論は、なんの意味もない。他者を殺す覚悟と、自己が殺される覚悟。このふたつの覚悟がはじめにあっての共生の思想であれば、私にも頷ける。いかにして共に生きるのかの前にあるべき、いかにして共に死ぬのかの思想、いわば『共死』の思想とでも申しましょうか。これに真正面から向き合わない議論は、あまりに空虚です。ところが、このところ巷に溢れている『共生』という言葉には、最近流行りの『癒し系』にも似た心地よさと、それに便乗した清浄なイメージばかりが先行している。どろどろと汚れた部分、生身の生き物が生きていくうえで避け得ない部分がすっぽりと抜け落ちている。


ものすごく胸にグサリとくる言葉だと感じた。当事者のことも知らずに簡単に共生なんて言葉を軽々しく使うのは、ほんと滑稽なことなんだろうね。山のことを深く知らない陸(おか)の人間が、利害関係なんて気にすることなく軽々しく語っては駄目なんだということを気付かされた気がする。


本書では「山は半分殺(の)してちょうどいい」という言葉がキーワードになっている。ある程度人が手を入れて、山の恵みを利用しながら暮らしていく。

自分の欲望を半分抑制して上手く付き合っていく、というような意味でこの言葉は使われているわけだけど、こうやって昔を生きた人達は“自然保護”だなんて大きな旗を掲げる必要も無く折り合いをつけて上手くやってきたわけだ。


なぜ現代の人達はそれをできなくなってきてしまったんだろうか。無条件に保護を訴えて、駆除する人を簡単に糾弾してしまうのが今の現状なのだろう。山のことを深く知らない陸(おか)の人間である僕なんかは大きなことは言えないけど、ものすごくわだかまりを感じてしまった。








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