★2009年6月29日の記事を再掲

ひとを“嫌う”ということ (角川文庫)本書では、人を嫌うというその「自然さ」について論じられている。

「人を嫌ってはならない」ということが世の摂理になっていると思うけど、それ自体が様々な問題を引き起こしていると言っても過言ではないのだろうね。“嫌う”ということを人間失格のように否定し、“嫌われる”ということを神経症のように過敏に恐れる。

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正直、こんな瑣末なことに振り回されて生きていきたくはないよね。そういったことは当たり前にあることなんだと思った方が、ずいぶんと精神衛生上良い。でもなかなかそうは簡単にいかないから故に、随分と昔からこの手の話が語られ続けているわけだ。


日本という社会を考えてみる。この社会では、上位の者が下位の者を嫌うなど、考えられない暴力であると表面上そうなっている。平等社会の現代では、「下」の者に嫌われないように自重することを概して求められる社会なっており、庶民感覚の人が嫌われずにすむわけだ。

何か賞を取ったとしても平常心を保たなければならない。ヤンキースの松井がホームランを打っても、しれっとした表情でダイヤモンドを回ってくるのもまさに日本人感覚。現地の人にサムライだと言われる所以です。ゴルフの石川遼くんが優勝した時の両手による豪快なガッツポーズなど、あれは日本独特の社会的規範が解っていない国際派の成せる技なのだろう。


しかし、本書ではその“嫌う”“嫌われる”ことをいかにして回避するかを考えるものではない。「みんなから“嫌われる”のは駄目な奴だ」という意識の鉄枠を取っ払ってしまって、また自分の中での“嫌う”を育てるということを考えている。

その自分の中での“嫌う”を育てたあとは、「こういうふうに人って誤解するんだなあ」とか、原因を探求するのが面白いことなんだ、と著者の中島義道さんは言っており、人を“嫌う”という感情を抱く自己正当化の原因として、以下のような8つの事柄を分類している。


1.相手が自分の期待に応えてくれないこと。
2.相手が現在あるいは将来自分に危害(損失)を加える恐れがある。
3.相手に対する嫉妬。
4.相手に対する軽蔑。
5.相手が自分を「軽蔑している」という感じがすること。
6.相手が自分を「嫌っている」という感じがすること。
7.相手に対する絶対的無関心。
8.相手に対する生理的・観念的な拒絶反応。


ほとんどのケースは1が基盤となり、3ないし4へと移行していって、最終的には8へと発展するんだという。個人的には、7から発展して6、5に移行したりもするなぁ。無関心なくせになぜか嫌悪感を募らせていってしまうという悪循環。なぜかそうなりがちなんですが…。


あと、中島さんはこんなことも言っている。

「じつは嫌いなのだが無理に嫌いでないふうを装う」という大原則をいったん捨てて世の中を見渡しますと、そこに大層おもしろい領域が広がっていることに気がついた。それは、突き放して見てみると、人間の魅力が輝き出ている場面であり、人生を豊かにする場面です。小説や芝居やオペラ、歌舞伎やお能や映画から「嫌い」を除去したら、似たりよったりのなんという退屈な作品しか生まれないことか!


確かに、これらの中には「日常的な嫌い」が溢れてるもんなぁ。それを無くしてしまったら、物語として芸術としても絶対に成り立たないよね。読者や観劇者はそういったものを沢山吸収して、「嫌い」というものが有り触れた普通のことなんだという風な、耐性をつくっていくのが良いのかもしれない。


本書では全篇に渡って繰り返し似たような主張が述べられるんだけど、それくらい“嫌う”“嫌われる”というものが「自然」なことなんんだということの表れなんだという風に感じられた。

悩むということは良いことなんだけど、そのまま同じ場所で留まるんじゃなく、一歩踏み出したり枠を外すことが何より重要であるということが理解できたように感じる。本書を読んだら、もっと楽に生きてもいいかもと絶対思えると思うので、何かしら悩みのある人は一度読んでみたらいいかも。

ちなみに、僕が嫌いだと感じる人は、人を何かの枠に当てはめて思考する人かな。







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