★2009年10月8日の記事を再掲

物語論で読む村上春樹と宮崎駿  ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)「物語論で読む」とタイトルで言われている通り、本書では「プロップの物語論」「ジョセフ・キャンベルの単一神話論」を引き合いに出されて村上春樹・宮崎駿両氏の作品を語っている。

上記の二つの物語論以上に引き合いに出されていたのが「スターウォーズ」の物語構造。かなり頻繁に比較されています。

正直、「スターウォーズ化した村上春樹と宮崎駿」とでもタイトルを変えたほうが良いんじゃないの? と思うくらい「スターウォーズ」という単語がこれでもかというくらい出てくる。まあ、「スターウォーズ」自体が、「ジョセフ・キャンベルの単一神話論」の構造を元に創られているらしいのでしょうがないのかもしれないけど。

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なんというか、本書は物語の構造いわば基本となる骨子を示し、それと小説の一部分とを照らし合わせて、ほらね当てはまってるでしょ? って逐一言ってるだけなようなものなので、ちょっと退屈したというのが本音です。それに、ある一定の物語論に対する素地がないことには解りにくいことこの上ない。

だからついつい、こじつけなんじゃないの? って思ってしまったりするんだけど、著者本人も「こじつけることでそれらしく解釈することは可能である」と言ってたりするしw まあ確かに村上・宮崎両氏が著者の言っていることを認めない限りは、どうあってもこじつけになっちゃうもんねぇ。ある意味、著者は潔いと思う。


何はともあれ、著者の解釈が正しいか正しくないかは別として、村上春樹本人は一応物語構造というものを意識して小説を書いているのは間違いないらしい。「1973年のピンボール」を書いた時にこんな発言を残している。

(この定式では)ストーリーのパターンでいけば、まず私立探偵がいて、そこに依頼がきて、その依頼に従って探偵が外的な世界と接触し、(略)紆余曲折を経たのちに探し求めていたものを手に入れ、それから彼は自分のもとの居場所に戻ってくるわけです。僕はこのパターンから私立探偵という設定をとっぱらってしまえば、かなり面白い図式ができるんじゃないかと思ったんです。


いわゆる「行って、取って、帰ってくる」パターンだよね。このパターンって手塚治虫もよくやっていたものだし、こないだテレビの「週刊・手塚治虫」に出ていた夢枕獏も一番好きな物語構造って言っていた。まあある種王道なのでしょう。

宮崎駿の場合は、以前いくらでも物語を創ることができるという発言を聞いたことがあったので、何かしらのマニュアルみたいなものを持っているんだろうなとは思ってたんだけど、村上春樹まで構造を分析して小説を書いてるとは思わなかったなぁ。感覚で書いてるタイプなんじゃないかと勝手に思ってたんで、ちょっぴり衝撃です。


あと、著者は「風の谷のナウシカ」について、なかなか面白い分析をしている。

風の谷のナウシカ [DVD]『風の谷のナウシカ』で興味深いのは、そこに「武装」「非武装」というモチーフが示されている点である。物語の冒頭は「風の谷」に巨神兵が突然持ち込まれるところから始まる。
 巨神兵とは敢えて言ってしまえば「大量破壊兵器」である。「風の谷」という辺境の小国はこの大量破壊兵器を所有した国家と、それを恐れ王蟲という貧者のための大量破壊兵器に手を出してしまう国家との対立に呑み込まれてしまう。
 この、小国に「大量破壊兵器」が持ち込まれ、それをそれぞれの思惑で平和利用しようとするモチーフはどう考えても「核」の反映としかとれない。一方、小さな飛行船に傷ついた仔王蟲で王蟲の大軍を動員しようとした、その貧者の方法とでもいうべきあり方は、9・11以降のテロリズムの本質に近い。しかもその二つの圧倒的な暴力はナウシカとクシャナそれぞれの「移行対象」として配置されているといえる。それはともに「不安定な私」の反映としてある。未だにこの国では核武装を一種の「正論」として口にする人々がいるし、むしろ、それに対する支持は以前より拡大しているが、それをとなえる政治家や支持する人々の顔ぶれを思い浮かべた時、そこに成熟した「大人」がいるとはとうてい思えない。
『風の谷のナウシカ』が優れた問いを提示した、と思うのは「核」や「テロリズム」をヒロインたちが自分の手段として獲得することで一人前の大人となるのではなく、むしろ、それをどう克服するかに置き換えている点だ。ライナスの毛布は大人になるために捨てられるべきものであり、巨神兵やクシャナの王蟲はナウシカの未成熟さと対になっている。
 ラスト近く、ナウシカが両手を広げ、武器を持たず、王蟲の仔を拉致した飛行艇の前に立ちはだかる姿は印象的だ。しかし、クシャナは巨神兵を起動させてしまい、ナウシカは自己犠牲という形でしか王蟲を止められない。巨神兵を自壊させることでアニメでは大量破壊兵器の使用をめぐる問いを曖昧にしているし、武装放棄やある種のガンジー主義としてさえあるナウシカの行動は特攻隊にも似た共同体のための自己犠牲にすりかわってしまっている。


改めて考えてみると、「風の谷のナウシカ」って戦争アニメなんだよな、戦闘シーンがメインになっているような気がするし。この作品を子供達がキャッキャキャッキャと目を輝かせて観ている風景を思い描いてみてみると、なんだか空恐ろしく感じてしまう…。

漫画版ナウシカに出てくる裁定者オーマの毒の光も、言ってみれば「放射能」というわけか、なるほどね。


うん、まあそんなこんなで、本書はちょっと広く浅くという感じで、まとまっているようでまとまっていない印象を受けました。色々引き合いに出しすぎなので混乱した感があるしね。一つ一つをもっと深く考察したら良いのに。そうしたらゴチャゴチャ感は無くなるかも。







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