哲学の教科書 中島義道
★2009年10月29日の記事を再掲

本書は、哲学には「教科書」などあるはずがないということを、これでもかこれでもかと語り続けたものである、と著者自身は言っている。

ある事柄について、これこれこういう考え方があるというのを示してくれてはいるけど、それを押し付けるわけではない。各自(読者に対して)その事柄について、考えてみてくださいと提案さえしていたりする。

1+1=2みたいに、哲学には決まった答えなんてないってことを言いたいのだろう。その辺りが「教科書」などないと言っている意味に繋がっているのだろうね。それと同時に哲学のやり方、哲学をする理由や、哲学の一番の敵である「わかったつもり」になることへの危険なんかも説かれている。

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この「わかったつもり」になるということ。それは哲学を“思想的”に読んでしまう、ということらしい。


そもそも哲学とは何か? 事柄自体を徹底的に考察することである(←色んな哲学者さんが言ってます) では思想とは何か? 他人が血を流した思索を、冷静になるべく客観的に理解しようとするものである、と著者は言っている。

要するに、人の体験なんて知らないのに、あたかも知っているかのように冷静かつ軽薄に語ることを思想と言うらしい。まあ、言ってみれば薀蓄?のようなものだろうね。


この哲学と思想を混同している人が結構いる(僕もちょっと前まで混同していました) いわゆる○○入門みたいな哲学者の名前を冠した本なんかも、哲学者の思索をただ解説しているだけでほとんど思想のようなものだ。当然ながら、その著者も哲学者ではなく哲学“研究者”であると言える(←中には哲学者であると言っている人もいるようですが…)

そもそも物事に対する向き合い方が(姿勢なども)、哲学と思想では根本的に違うわけだ。そのことを理解して取り組まないと危険であると著者は再三言っている。


たまに「哲学的な小説」といわれるものがある。人生や世界の「深い」意味を、物語によって描くことを目指しているもの、などなど。それらも著者に言わすと、哲学ではないらしい。

現実そのものの不思議さに立ち向かっていないという意味で、哲学的ではないらしいのだ。現実そのものの不思議さに立ち向かっていたとしても、ほとんどの作品が常識の域を出ていないとも言っている。


まあ小説家は哲学者ではないんだから、それはしょうがないことだろうと僕は思う。でも、著者からしたら、そういう専門じゃない人間が、わかったような事を言っているのが嫌いなんだろうなw 何にせよ「思想」が透けて見えるものは哲学ではないのだろう。

村上春樹の作品も哲学的だという人も中にはいるけど、彼の場合“非日常”を描いているという意味で哲学的ではないということなんだろうね。あくまで芸術家であると言える。森博嗣の思索なんかもあれは常識の域を出ていないだろうから、普通の薀蓄だと言えるかもしれないw


それから、著者は「哲学は何の役にもたたない」とも言っていたりもする。え、そうなの?

 私は何を言いたいのか。哲学は何の役にもたちません。しかし、それは、確実に見方を変えてくれる。有用であること、社会に役だつこと以外の価値を教えてくれる。人のために尽くすこともいいでしょう。老後を趣味に明け暮れるのもいいでしょう。しかし、本当に重要な問題はそこにはない。それは「生きておりまもなく死ぬ、そしてふたたび生き返ることはない」というこの一点をごまかさずに凝視することです。そして、このどうすることもできない残酷さを冷や汗の出るほど実感し、誰も逃れられないこの理不尽な徹底的な不幸を自覚することです。ここに、「死者の目」が獲得されます。それは、この本で何度も触れたように宇宙論的な目であり、童話の目、子供の目にも近い。そして、そうした目で見ると、税務署や検察庁の職員たちも奈良時代の官吏のように輝いてくる。あと一億年すれば、いや一千万年でもいいかもしれない、多分人類の記憶は宇宙に一滴も残らないであろう。このことを実感して、夜の電車の中にすしづめになり家路を急ぐくたびれ果てたサラリーマンたちを、その上に揺らめく刺激的かつ下品な吊り広告を見ていると、すべてがガラス細工のようにもろくはかなく美しく見えてくるのです。
 つまり、簡単に言えば、哲学は「死」を宇宙論的な背景において見つめることによって、この小さな地球上のそのまた小さな人間社会のみみっちい価値観の外に出る道を教えてくれます。そして、それは同時に本当の意味で私が自由になる道であり、不思議なことに自分自身に還る道なのです。


これを読むと、半分宗教チックな感じを受けなくもないけど、でも、なんかちっぽけな悩みなんて開放されちゃいそうな気持ちにはなるね。「社会に役だつこと以外の価値」、これを見付けることが哲学の本質なのかもしれない。そして新たな価値観を獲得するわけだ。

だけど、価値観が変わったら変わったなりの悩みも出てきそうな気はするけどね、その辺は延々とループするんだろうな。でもそれが哲学者にとっては楽しいところなのかもしれない、そんな気がする。


あと、著者は小さい頃からすでに哲学者気質があったようです。

私は、七歳のころから自分が生きていることや、やがて死ぬことについて不思議な思いの渦の中にいたのですが、それをけっして大人たちに言ってはならないことも知っておりました。


こんな子供が自分の同級生の中にいたとしたらと考えると、ちょっと空恐ろしく感じるね。やっぱ東大とか行っちゃう方っていうのは、小さい頃からこんなことを考えちゃうもんなんだろうか? 多少はそういう思索を持つ子供もいるかもしれないけれど、それを大きくなっても無くさずにずーーーっと持ち続けたような人が哲学者になるんだろうなぁ。

僕自身も幼稚園児の頃、自分以外の子供は皆ロボットなんじゃないか? みたいな疑いを持っていた時期があったけど、小学校に上がる頃にはもうそんな考えは持っていなかったけどねぇ。


まあ、このように本書は著者自身の学生の頃のエピソードなども交えながら、哲学の事を色々と語られているので(内容自体の難易度はさておき)比較的読みやすかったように思う。

哲学者になるとはどうなることか、周りからどう思われるか、どのような生活が待っているか、なんてものまで語られているので、これからそこを目指す人なんかにはかなり参考になるんじゃないだろうか。


最後に、読み終わって思ったのが、著者は哲学者の中でもどちらかといえば理系サイドの人間なんじゃないかということ。かなり理詰めでものを語っていて、たぶん自分の中にある型みたいなものに当てはめて思考しているように感じたんだよね。

そういうのって、哲学的にどうなんだろう? もっともっと柔軟でも良いような気がするんだけど、こんなもんなんだろうかねぇ。まあ、あくまでも初心者の意見なのであしからず…。

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