魔の山 トーマス・マン
★2010年1月23日の記事を再掲

数年前、上巻を読み終わった時点で力尽き、今回改めて最初から読み直してなんとか読了しました。うん、間違いなく面白い。しかし、いかんせん長すぎる……。

特に下巻はちょっと冗長な感じがしてしまうしね。後半に向かうにつれて、エピソードがぶつ切りになっているというか、エピソード同士が不自然な繋がり方をしていて、なんだか短編集でも読んでいるような感じがしてしまった。

それに、下巻から登場するナフタ、ペーペルコルンという超絶人物によって、かなり難解な色を呈しているし。彼らの登場によって、一気にサナトリウムでの面白く興味深い日常が雲散してしまった感があるんだよね。

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TVゲームとかで、万能キャラの登場によりゲームバランスが崩れるとはよく言ったものだけど、本書はまさにその状態。これまで流れていた空気が完全に変わってしまった。


まあ上巻もそれなりに難解で、生理学、有機化学、植物学なども話の中で出てくるんだけど、それはサナトリウムでの病気療養とかとも関係しているのでまだ入り込みやすい。しかし下巻では、それらに加えて戦争、政治、歴史、哲学、宗教、イエズス会、ジェズイット、フリーメーソン、イルミナティなどの事まで語られ出すので、もう大変でした。ほんと彼らの登場によって何度睡魔に襲われたことやら……。

そういうこともあり、日常の面白さというものは無くなってしまったものの、知的好奇心に関してはかなり刺激されたと思う。でもはっきり言って、一筋縄ではいかなかった、お手上げです。たぶん4割くらいしか理解できなかったなぁ。


そんな中で、一番興味深く読んだのは“時間”の話。時間というものは本来絶対的なものとして考えられているけど、サナトリウムという言わば隔離された状態に置かれた人達にとっては、自分たちが感じるように進むと考えらているとのこと。

長いなら長い、短いなら短い。「本来」なんてものはない。彼らのように下界から離れて長期療養していると、それは進んでいると同時に止まっているような。変転しながら停止していて、眩暈を起こすようで単調な繰り返しをしていいるような、半分夢のようで、そのくせ人を不安にさせる。それが彼らにとっての“時間”の感じ方らしい。


僕も2週間くらい入院をしたことはあるけど、彼らのような感じ方をするまでには至らなかったけどなぁ。まあ僕らの場合、テレビなどがあるから時間や曜日感覚も失わずに生活ができるというのが大きいと思う。

そういったものがない時代を生きる彼らは、長期療養生活によって時間を計る物差しのメモリの間隔が非常に広くなってしまったのだろう。


そんな彼らは逆に、体温計を口に入れている数分間、音楽が演奏されている数分間のように、独立した何物かである、初めと終わりがちゃんとある、というものに強靭な重みがあると感じていたりするのだ。

音楽で言うならば、曲の音形によっていくつかの部分に分けられる、さらには拍節に分けられるといったように、時間自体も運動がある、循環する、時間には終わりあるものなんだ考えることによって、そこに具体性を見出していた。


時間と関連して、物語についてもこう語られている。

「時は流れ、時はすぎ、時は移る」というふうに話しつづけるものは物語ではない。時間を充たす、つまり時間を「きちんと埋め」、時間を「区切り」、その時間にはいつも「何かがあり」「何かが起こっている」ものが物語といえる。


僕らは普通、時間は永遠なるもの、無限なるものだと考えるように決められているけど(そう考えた方が考えやすいから)、時間は区切られておりその中で何かが充たされている、その連続が物語であり我々の生きている世界もまたしかり、などと考えるとするならば、ちょっと視野が広がったような気がしないこともないね。


いやぁ~難しかった(僕にとっては)。もっと語るべきところはあったんだけど、ちょっと文章が長くなりすぎたのでこの辺で終わりにしておきます。それにしても、下巻の裏表紙って普通にネタバレが書いてあるんだけど…。

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