★2010年2月24日の記事を再掲

音を視る、時を聴く哲学講義 (ちくま学芸文庫)本書は音や時間について主に語られているわけだけど、読んだ印象としては哲学講義というよりも物理学講義のように感じてしまった。それらを論理的に多くを語ろうと思ったら、どうやら哲学の領分を越えなきゃしょうがないみたいで(注:哲学の領分がどういう範囲かはよく分からないけど…)、結構難解な部分が多い。

哲学者の大森荘蔵さんは物理学も専攻していたようで、普通に専門用語がばしばし出てくるのも読み手としては結構戸惑う部分も無きにしも非ず。そんな相手を前にして、坂本龍一さんはよく普通に対談が出来たよな、と改めて感じてしまった。

僕らの場合、分からなければ文章を読み返すなりして理解しようと努力できるんだけど、彼の場合は瞬間的に意味を理解しないと会話自体が成り立たないもんねぇ。相当賢いんですね、坂本さんって。

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僕自身、頭の中で上手く咀嚼できないものは、「へぇ~そうなのか、確かにそういうもんだよね、なかなか面白い考え方をするもんだね」とかいう風に、思考を持っていく他なかったなぁ。

でも、難しいんだけど、読んでるうちに段々分かりかけてくる部分がある。その分かりかけてくるモヤモヤした状態自体が、結構楽しかったりするんだよね。パズルのピースがはまりそうではまらない感覚。後ちょっとなんだけどなぁという感覚を楽しめ出したらこっちのものですw


そんな中で、一番興味深く感じた話は「心の内と外」の話。感情というものは、心の内(意識の中)にあるのでなく、心の外にあると大森さんは言うのだ。外部の状況とそれに対する肉体的反応、そのトータルがその感情の状況を表しているらしい。考えたり、念頭に置いたりした“そのもの”は心の中にあるわけじゃなく、実際に自分の前に立ち現れているともおっしゃっている。

考えを起こす、それは何かを実行するプロセスであったりするわけだけど、それはいわゆる未来の世界、話であり、○○する“つもり”の未来が自分の前に立ち現れるというわけだ。“心の中”で考える、その考えるという「場所」自体が無いとのこと。

これはたぶんイメージするということと一緒で、自分の目の前にパソコンのモニターが“あると考えたからそこにあると言える”というロジックと同じ考え方なのだろう。


そう考えてこそ目の前に立ち現れる。考える→立ち現れるというプロセスにはタイムラグはないと勝手に推測。アメリカにある自由の女神だって、僕がそこに在るとイメージしたからこそ、そこに立ち現れるわけだ。

そんなの僕がイメージしなくても、過去現在未来を見渡してもそこにあるじゃないかと言われるかもしれないが、そんなことが本当にそうだと言えるのだろうか? 考える、イメージするからこそ、そこに立ち現れる。言ってしまえば、イメージできない(してない)ものは、ないものと同じということなのかもしれない。


そこでちょっと思ったのが、小説などを読んでそこに出てくる主人公などの感情についてはどう捕らえればいいのかということ。このキャラはこういう感情を持っているんだね、と読み手が感じると、その感じ取った感情はどう立ち現れるというのだろう? 

外部からダイレクトに自分が感じ取ったわけじゃなく、人が感じたことをさらに自分が読み取って感情を表す。そこに自分が読み取った時の「場所」というものが、やっぱりあるような気がしてならないんだよね。なんかもうどんどん頭がこんがらがってしまう…。


いやぁ~色々考えさせられました。ひとつも腑に落ちる解釈を自分の中では出来てないんで、頭の体操になったかどうかは微妙なところ。でも、なんだかんだで面白かったです。<今現在>の話なども、そのうち読み返そう。







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